Here is a witch's heart

07th Expantion様の「なく頃に」シリーズの考察を行っています。たまにブラウザゲーム「政剣マニフェスティア」についても言及するかもしれません。

人格説の抱える問題点

これまで自説である『死体行動説』と並行して巷で主流であると思われる『人格説』の検証を行ってきました。
しかし、人格説をうみねこ本編に適用して考えるとどうにも腑に落ちないことが多々あります。
今回は「ハウダニット」「フーダニット」「ホワイダニット」の観点から人格説の問題点を指摘したいと思います。


ハウダニットの観点からの問題点
loosedogtom.hatenablog.com
まずは過去記事より。
人格説の肝は一つの体に複数の人格があり、それの切り替わりでアリバイなどを崩していく点にあります。
しかし、EP5には探偵ヱリカと紗音・嘉音が同室している描写があり、「一つの体に…」の点が説明ができなくなっています。
探偵ではない戦人が語り部であり、語り部の視点描写であると言う説明をつけることもできますが、ちょっとモヤっとします。


また、EP6の戦人が閉じ込められたロジックエラー密室でもおかしい点があります。
人格説を採用するサイトさんの解説を読むと、嘉音のゲストハウス脱出は人格を切り替えての窓からの脱出と言うものが多いようです。
しかし、雛ベアトがロジックエラーを修正する新ロジックを構築し、ラムダデルタにそれを認められたのはヱリカによって窓が封印されている時点でした。
つまり、雛ベアトが構築した新ロジックは窓が封印されていることが前提であることが想像できます。
よって、窓から嘉音が脱出する方法は間違いである可能性が高いことになります。

人格説を擁護するとしたら以下のようにできるでしょうか。
新ロジック構築後、確かにヱリカは窓の封印をなかったことにしています。
そしてそれは雛ベアトが勧めたものです。
ゆえに雛ベアトはヱリカが窓の封印を解くことを見越したロジックを立てたと考えることもできます。
ロジックエラー密室はゲームの時間を止めて進行されているので、最終的に窓の封印を解かれていればOKと考えることもできるかもしれませんが…。



〇フーダニットの観点からの問題点
loosedogtom.hatenablog.com
 こちらも過去記事より。
 EP7では安田紗代のいない理音の世界でも惨劇が起きていることが示唆されています。
犯人を安田紗代とすると、この状況はおかしいことになります。


 また、EP7で描かれた留弗夫一家のように黄金を巡るトラブルが起きたという可能性もありますが、
こちらも薄いと言わざるを得ません。
なぜなら理音の世界にはすぐ現金化できる10億円の入ったカードもなく、金蔵が生きているからです。
黄金を独り占めしようとしても、現金化の難しい黄金のインゴットしかなく、金蔵が生きている以上金策の相談を行う余地があるのです。
殺人を犯してまで取るほどのリスクとは思い難いのです。


 以上の2点より、一連の惨劇は安田紗代によって起こされたものではなく、他になんらかのシステムがあって各EPで惨劇が起こると考えるべきでしょう。



ホワイダニットの観点からの問題点
人格説において安田紗代の動機は「右代宮家への復讐のため」などが指摘されています。
EP7において安田紗代は碑文を解き、金蔵から右代宮家当主の座を譲り渡す申し出をされています。
しかし、彼女は自分の現状を維持することを選択しました。
つまり、安田紗代は自分の現状に満足しており、右代宮家への復讐などは考えていなかったと考えられます。
(それともこの時点でもう計画を立てており、その変更をいやがったのでしょうか?)


 また、EP6で戦人はベアトリーチェの代わりに雛ベアトを生み出しています。
劇中のセリフを引用します。

「……“あのベアト”が蘇ることは、決して無い。しかし、もう一度“ベアト”を生み出すことは、不可能ではないということだ…。
忘れたか? 第1のゲームの最後で、ベルンカステル自らがベアトの正体を語ったはず…。」
「……………………。……思い出したわ。
…ルールが具現化した存在、みたいなことを言ってた。」
「そのルールと情報が練り上げられ、最終的に、あのベアトリーチェという魔女が形作られたのだ。
それを再びなぞれば、同じベアトリーチェをもう一度生み出し、それをもって復活と呼ぶことも出来よう…。」

この表現から考えると、ベアトリーチェとはゲームそのものと言えます。
もしもベアトのゲームの犯人が安田紗代で、そしてその動機が「右代宮家への復讐」だとしたら、戦人は再びそのゲームを復活させようと願うでしょうか。
それは戦人が六軒島に居る人間が殺されることを認めると言う意味になります。
戦人が自分の罪を謝罪することはあれ、六軒島の人たちには殺されてもしかたがないほどの罪があったのでしょうか?



 以上が、人格説が抱えている問題点の大きなところです。
さらに言えば細かいところを指摘すれば、もっと多くの問題点もあります。
が、今回挙げた点はうみねこのなく頃にを構成する要素において非常にクリティカルな部分だと考えています。
ここに問題点を抱えたままではとても真相であるとは言えないと私は考えています。


〇人格説とは何か
 ここまでネガティブな点を挙げてきましたが、人格説が完全に外れた説であると言うつもりはありません。
過去に検証したように(私の説明では苦しい部分もありますが)各EPの赤字を満たしつつ状況を説明できることは事実です。
また、ウィルのクレルに対する回答も死体行動説よりも人格説を適用した方が解説しやすいでしょう。
人格説もある程度うみねこのなく頃にと言う物語に組み込まれているのではないかとは思います。


 ただ、問題はその組み込まれ方です。
関係ないとは言えない。しかし、問題点もこれだけ出てくる。
そこで私が提唱したいのが『人格説カバーストーリー説』です。
人格説は真相とは言えない。しかし、物語を読み終えてそれで満足できる人はここでやめてもいい。
考察に疲れた人はここでやめてもいい。
そのために用意された仮の答えなのではないでしょうか。
RPGで言う「表ボス」なのです。


 以前の記事からの引用です。
C81頒布作品同時予約特典小冊子「我らの告白」の文末にてドラノールが独白しています。

しかし、もし可能ならば。
この物語の一番底に秘められた、彼女の思いに至って欲しい。
彼女はこの物語を、2つ描き、1つしか公開しないと言った。
しかし、本当はそれも違う。
3つ描き、1つしか公開しない物語なのだ。
この未完成原稿によって、その3つの内の2つまでが晒された。
最後の1つは、どうかあなた一人の力で辿り着いて欲しい。
それが、同じ女として、これを読む諸賢に強く願いたいことである。


ベアトリーチェは物語を「3つ」書いていると。

私はこれを

 1つは人々の目に触れたボトルメール

 1つは真相を隠すためのダミートリックによるカバーストーリー

 1つは本当のトリックを使った真のストーリー

と受け取りました。


 ミステリは消耗品です。
一度結末まで読んでしまえば、以後それはゲームしては機能しません。
うみねこのなく頃にはEP5以降は「解」ではなく「散」を名乗っています。
ゲームの「解」を「散」らしゲームとしての機能を維持するためと私は解釈しています。
人格説は仮の結末を物語に与え、ゲームとしての機能を維持するためのものであると私は考えています。