Here is a witch's heart

07th Expantion様の「なく頃に」シリーズの考察を行っています。たまにブラウザゲーム「政剣マニフェスティア」についても言及するかもしれません。

うみねこへの批判に対して思うことを書いてみる

うみねこEP8発表後からうみねこに対する批判が多くあるのですが、それについて思うことを書いてみます。

ちょうどTwitterのタイムラインにてこちらの方の意見が流れてきたので、こちらを叩き台にして少し語らせていただきます。
けしてこちらの方の意見を否定したい訳ではなく、別の見方もできるよと言うスタンスのつもりです。
あしからず。
ima-muka.com

一なる真実

引用します

今回の物語は、一なる真実の書を知りたいと望む縁寿と、それを望まない戦人たち、という対立構造が大きな柱となっていました。


ここでの問題は大きく分けて、
①一なる真実が読者には明示されなかったことへの不満、
②そもそも真実を隠すことの意味は何かという疑問 の二つだと思います。

まず考えたいのが「なぜ対立構造になったか」と言うことです。
EP4までは戦人も縁寿も同じものを目指して共闘していたはず。
縁寿の目的は変わっていないので戦人の何が変わったかを考えなければなりません。

そこで考えたいのは「求める答えとは何か」です。
うみねこの中で「答え」を求めてくるキャラクターは二人います。
縁寿とベアトです。
縁寿はあの日六軒島で何が起きたかの真実を求めています。
ベアトはボトルメールを戦人に読ませ、その答えを求めています。
さて、縁寿とベアトの求めるもの。これが同じものなのでしょうか?
本当にあの日の真実=ボトルメールの真実なのでしょうか?

ボトルメールの真実はベアトが解いてくれと願っています。
これは解くべきでしょう。
しかし、縁寿の願いはあの日の真実を解くことですが、もっと大きなところから見れば「白黒つけたい」「誰か帰ってきて欲しい」などになりあの日の真実を解くことが必ずしも縁寿の幸せにつながるのか疑問です。
実際、一なる書を読んだ後くず肉になってしまっていますし。

EP8の縁寿と戦人の対立の構造は、山羊の群れと戦人達の対立の構造と同じとも言えます。
山羊たちが求めているのは「あの日の真実」であってそれが「ボトルメールの真実」と同じものだと考えて行動しているように私には読めました。
それだったら戦人達が怒るのも理解できます。
魔女幻想の産物ともいえる魔女たちは一なる真実が隠されているからこそ猫箱の中で存在できるもの。
あの日の真実を無遠慮に解かれてはたまりません。
もちろん現実に生きている右代宮家の人間たちにもあの日の真実が不名誉なものであることはなんとなく察することもできます。

こういったことから考えるとボトルメールの真実は「解くべきこと」。
あの日の真実は「そっとしておくべきこと」。
そういった区別があり、戦人たちはそれを守っているのではないかと考えることができます。

黄金の真実とは

マンガ版では黄金の真実について語られていますので、お口チャック。

戦闘描写について

登場人物を善と悪に分けて、「真実を守ることを善、暴くことを悪」という思想のプロパガンダをしていると捉えられる

と捉えられているようですが、一なる真実の項でも述べましたが「解くべきもの」「解かないでいいもの」の区別がなされた結果の戦闘だと思います。

心のない推理は、絶対に許さねェ

愛がなければ視えないはうみねこのキャッチコピーと言っていい表現ですね。
その他にもウィルや戦人が心を大事にする推理について語っています。
愛については縁寿がEP4やEP6で小此木や幾子と語っています。
立場を変えて多面的に物事をみることと語っていたはずです。

これは私の持論になりますが、愛がなければ視えないとは登場人物を信じ、その人物の立場に立って物事をみると物語で語られたことと別のものが見えてくることを指していると考えています。

例えば楼座です。
EP4で真里亞に切符の半券を見つかり男と旅行に行っていたのではと描写されています。
ですが、これは真里亞の日記を読んだ縁寿の主観です。
本当に正しいのでしょうか?
楼座を信じ彼女の立場に立って物事をみます。
彼女は真里亞を愛し、仕事に一生懸命だったはずだと。
すると今まで見えなかったものに気づきます。

私、切符の半券って見たことありません。
切符はハサミやスタンプを押され改札で回収されるものだからです。
飛行機ならわかるんですけど。

つまり、真里亞が見た切符の「半券」は「半券」ではなく未使用の切符なのではないか。
明日の日帰り出張に使うものや、真里亞のために家に帰るから本来使うはずだったのにキャンセルしたものではないか。
そういう見方ができるようになります。

この見方は答えを作中で書かれてはただの真実の上書きになってしまいます。
自分で見つけることに意義があるのだと思います。だって「愛がなければ視えない」んですから。
作中で書いちゃったら愛がない人にも見えてしまいますから。

今回は楼座を例に出しましたが、他にも留弗夫が霧江と急いで入籍した理由や金蔵と九羽鳥庵ベアトの関係などでも同じことができています。

まとめ

あの日の真実とボトルメールの真実は同じものでしょうか?
あの日の真実は解くべき真実なのでしょうか?
解くべきものと解かない方がいいものがあるのではないでしょうか。

物語に出てきた主観をそのまま信じ一方的な見方になっていないでしょうか?
場合によっては作中で語られた真実も疑う必要があるのではないでしょうか?

以上、EP8に対する批判への擁護とさせていただきまs。